Subrow’s Blog

エンジニアとしてのキャリアをベースに「ものづくり」の昔と今、そして未来予想図をこのブログを通じて創っていきます

ラグビーW杯 日本 vs アイルランド戦から感じた「日本人」のメンタリティの変化

開幕から1週間を経過したラグビーW杯日本大会。
昨日は、世界ランキング2位のアイルランド代表を日本代表が破り、かなりの盛り上がりを見せている。
東京オリンピックを来年に控えいろいろな競技で顕著なレベルアップが見られるが、その中でオリンピック種目ではないラグビー(7人制は採用されている)が、これほどのレベルまで来ているとは正直驚いた。
4年前のW杯で南アフリカ代表に勝った、あの試合から更なる進化を遂げていたことが証明された。

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昨日の試合後のインタビューでメンバーが明かした、試合前にヘッドコーチから選手たちに贈られた言葉。

「誰も勝つと思ってないし、接戦になるとも思ってない。僕らがどんな犠牲を払ってきたか、誰も分からない。勝利を信じているのは自分たちだけ」

この試合に懸けていた関係者全員の思いが詰まった、素晴らしい言葉と感じた。

が、彼らは本当に途轍もないハードワークを積んできたのだと思う。
その内容は想像するしかないのだが、一つの目標に向かって意思統一をし、それを実現するための方法論を突き詰め、それを全員で共有、理解し、達成出来ることを信じて一人ひとりが与えられた役割に真摯に取組む、ということなのだろう。


明治以降の日本人のメンタリティ

明治維新以降、国を挙げて欧米列強に追い付け追い越せと「富国強兵」に取り組んだ日本。
資源も乏しく技術も未熟だった日本が、欧米諸国に肩を並べられるようになったのは、明治以降の日本人に刷り込まれた「滅私奉公」のメンタリティによって築き上げられてきた部分が大きい。

が、その独特のメンタリティが数多くの悲劇を生んできたことも事実だ。
戦車も、船も、飛行機も、弾薬も、物資も、全く足りない、全く勝ち目のない戦争に突き進んだのも、このメンタリティが大きく作用しているのではないか。精神論を振りかざして、兵隊に食糧を与えなくても、武器や弾薬を与えなくても「大和魂」さえあれば勝てると言い続けた軍上層部は、まさにその象徴的な人たちだ。ましてや、その兵隊たちの大半はロクな訓練も受けていない、その辺の若者たちなのに。
(ちなみに私のブログは思想的な背景は全くないので誤解なきよう)


ラグビー日本代表が教えてくれたもの

若干話が逸れたが、戦後70年以上が経過してようやく日本も、精神論だけでは勝つことが出来ないものが世の中にはたくさんあることに気づいてきたのだろう。私はこのラグビー日本代表を見てそう思った。

勝負に勝つためには、何が必要で、何をすべきか、を彼らは徹底的にやり尽くした。
外国出身のコーチや選手を日本に招聘し、自国代表ではなく敢えて日本代表でプレーする選択をさせたことで戦力は揃った。そこには日本ラグビーの魅力と可能性を伝え、彼らに「日本のために戦おう」と思わせた日本ラグビー界全体の弛まぬ努力と環境整備があったのは云うまでもないだろう。

そしてもう一つは、戦術面の意思統一と実行スキルの徹底強化であろう。
戦力が揃えば立てられる戦術のバリエーションが増えるのは当然なのだが、それでも、その戦術を自分たちのものにして実行出来るように仕上げていくのは、並大抵の努力ではなかったはずだ。それが前述の「僕らがどんな犠牲を払ってきたか、誰も分からない」というヘッドコーチの言葉に凝縮されている気がした。

そもそも私は精神論を前面に押し出した体育会系のノリが大嫌いな人間だ。
最近でこそ減ったようだが、全く意味の分からない苦しいだけの練習や、先輩からの愛のない単なるシゴキは、一昔前の体育会系なら当然のようにあった話だ。だからこの話は、日本人のメンタリティの変化の端緒を見た気がして非常に嬉しいのだ。


日本企業は見習って欲しい

しかし日本の企業においては、この明治維新ゆかりの「滅私奉公」が、いまだに大きく幅を利かせているのが実態だ。いわゆる「ブラック企業」と呼ばれる領域は論外としても、社員に理不尽な自己犠牲を強いて成り立っている企業が日本にはまだまだ多くある。全く現実離れした売上や利益の目標、コスト削減、人員計画など、これでは前の大戦の頃と同じメンタリティではないか。

確かにスポーツとビジネスを同列には扱えないが、少なくともこれほど理不尽な自己犠牲を強いて、非効率なビジネスを進めている国は他にあまり見当たらない。

第二の産業革命と呼ばれビジネス構造が大きく変化している時代、日本企業が今後も生き残っていくために、「働き方改革」などという形式的なものではなく、まずこのメンタリティの改革に取り組むべきではないのか、と切に思う。