Subrow’s Blog

エンジニアとしてのキャリアをベースに「ものづくり」の昔と今、そして未来予想図をこのブログを通じて創っていきます

京都にとっての終戦の日

今年も8月15日が間もなく来る。74回目の「終戦の日」である。

巷では「終戦記念日」という人もいるが、あれだけの尊い人命を失い、多くの犠牲者を出した戦争が終わった日を「記念」と称する気にはなれない。

 

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京都の戦災

ご存知の方も多いと思うが京都は戦災をあまり受けていない。隣の大阪は何度も大空襲を受けており、京都市内からも大阪の街が真っ赤に燃えているのが見えた、と母や祖母から聞かされたが、それに比べれば市内数か所で爆撃を受けているとはいえ軽微なものであったようだ。

 

米軍の原爆投下計画

米軍が京都を通常爆撃の標的から外していたのには理由があった。当時開発中の新型爆弾、つまりは原爆の第一投下目標として想定していたからだ。

三方を山に囲まれ、適度に人口密度が高く、原爆の威力と効果を確認するのに絶好のロケーションであったため、敢えて通常爆撃はせず街並みを維持していたのだ。

しかし、当時の米国国務長官ヘンリー・スティムソンはその軍の意向を聞き入れず、大統領にも承認しないよう説得した。結果的に広島と小倉に目標が変更されたが、投下当日は小倉の気象条件が悪くて、長崎に投下されてしまった。

 

京都に原爆が投下されなかった理由

スティムソンが京都への投下に反対した理由は、逸話的にいくつか伝わっている。

・スティムソン自身が過去に何度か京都を訪れ、強い思い入れがあったから

・軍事都市でもない京都の一般市民を多数殺戮することで、ヒトラー以上に世界的な非難を浴びるかもしれないから

・日本の誇りでもある歴史的建造物や文化財を破壊することで日本国民の感情をさらに逆なでし、戦後の統治政策に影響が出るから

正直、本当のところは私には分からない。

少なくとも一般市民を大量殺戮したのは広島でも長崎でも同じなのだし、東京や大阪などでも爆撃によって焼け出され、家族や大切な人を失った市民一人ひとりにとっては、アメリカに対して憎悪しかなかったであろうし。

結果論として、京都には原爆が投下されなかった、ということでしかないし、小倉もまた同じである。

 

終戦後の京都

不幸中の幸い、という言葉が適切かどうか判らないが京都は大きな戦災を受けずに終戦を迎えた。日本の大都市で唯一といっても過言ではなかった。

ただ物資の不足は何処も同じなうえに、戦災を免れたことで他都市から流入してくる被災者も多く、生活も治安も非常に厳しい状態だった、と祖母は語っていた。

当初の計画では原爆投下目標地点は京都駅の西側、現在では梅小路公園京都鉄道博物館のある辺りだったらしい。

私の両親の実家はともに京都市内の中心部に近かったので、もし原爆が投下されていれば、両親も恐らく犠牲になっていたであろう。そう思うと、今こうして自分が生きていることが不思議に思えることがある。

 

文化財や伝統工芸への想い

京都はもともと平安京創生の際より、四神相応の都として青龍、白虎、朱雀、玄武が各方角を守護するものされている。戦火を免れたことと四神の関係は証明することは出来ないが、少なくとも平安京以降、脈々と受け継がれてきた文化財や伝統工芸は、今日に確実に守られ伝わっている。そしてメディアの発展を通じて多くの外国人を惹き付け、観光客の増加に至っている。

愚かな戦争でそれらが失われなかったことに感謝し、今後も絶やすことなく継承していけるような平和な世の中であって欲しいと、京都市民として終戦の日を迎えるたびに切に願っている。