Subrow’s Blog

エンジニアとしてのキャリアをベースに「ものづくり」の昔と今、そして未来予想図をこのブログを通じて創っていきます

私が本格的にものづくりの世界に足を踏み入れたキッカケとは

9月に入り、今年も台風の季節だ。
京都を含む近畿地方も昨年は、平成最強とも云われた台風21号の襲来で甚大な被害を受けた。
平安京遷都とほぼ同時に建立されたとされる平野神社の本殿が風に煽られ倒壊したのをはじめ、嵐山渡月橋の欄干も横倒しになり、その他、二条城、北野天満宮など40か所近い旧所名跡で社の損壊や倒木の被害があったそうだ。今年はそのようなことのないように願いたいのだが、昨今の気象状況から察するにリスクは年々高まっていくのだろう。

そんな京都で私が生まれたのが、前回の東京オリンピックの翌年である1965年(昭和40年)である。
高度成長期の真っ只中で新幹線や高速道路などのインフラ整備が一気に進み、国民の暮らしも右肩上がりだった時代だ。

スーパーカーブーム

私の幼少期については前回書いたが、今回は、私を「ものづくり」にさらに傾倒させた、もう一つの大きな出来事について書きたい。

その出来事とは1976~1978年頃、つまり私が小学校から中学校に上がる前後に起こった「スーパーカーブーム」である。少年ジャンプに連載されていた「サーキットの狼」という漫画がキッカケで空前のブームとなった。(下の写真は当時人気No.1だったランボルギーニ カウンタック


f:id:Subrow:20190831180917p:plain

スーパーカー」とは高出力、高性能かつ美しいデザインを持ったスポーツカーの総称である。今でも高級スポーツカーとして有名な、フェラーリランボルギーニ、ポルシェなどが展示されるイベントがあちこちで開催され、カメラを持った小中高生が長蛇の列を作った。もちろん、私もその一人であったのだが。

そしてその後、F1などのモータースポーツが一大ブームになったこと、またバブル景気で大金を手にした人たちが、こぞってスーパーカーを乗り回していたことなどは、少なからず「スーパーカーブーム」の流れを継承していたのではないだろうかと思ってしまう。

エンジニアへの志と齢を経ての実感

少し前段が長くなってしまったが、私自身もこのブームに影響を受け自動車メーカーのエンジニアを志すことになる。前回で書いた幼少期の経験と重なって、自動車に「乗る」より「作る/造る/創る」に強い関心が向くようになっていたからである。そして何とか夢を叶え、自動車メーカーに就職しエンジニアになることが出来た。しかし当時を振り返ると、自動車が大好きではあったが、一方で「ものづくり」に対する意識や考え方はかなり漠然としたものであったように思う。

そして今になって、幼少期に体感した職人マインドが基盤となる手しごとの分野、そして後に職業として体感した合理的生産手法を追求する大量生産の分野、これらが同じ「ものづくり」でも、似て非なるものであることに今更ながら気づく。「ものづくり」の奥深さ、幅の広さ、更には、それぞれの作り手の考え方や思い入れなど、どれだけ掘り下げても掘り下げきれないものがあることを、この歳になってようやく気づき始めている。いや、ようやく頭の中で整理がつき始めてきたと云うほうが正しいかもしれない。

私は今後、そんな経験と思いを基盤に「ものづくり」の将来、特に「伝統工芸」の将来に何かお役に立てないか、と思っている。その思いは今後のブログで、少しずつ具体的に書いていきたい。

ものづくり(伝統工芸)への思い入れと原点

台風が通過したあとも残暑厳しい京都だが、秋の訪れも間近である。
最近では地球温暖化の影響か紅葉の見ごろも11月後半頃までズレ込んできている。
「そのうちクリスマスと紅葉の見ごろが重なるのでは」といった、なまじ冗談とも思えない話が出るのも無理はない。

今回は、そんな京都で生まれ育った私が、こうしてものづくりや伝統工芸について強い思い入れを持った経緯の一端について書かせて頂く。


鋳物工場で遊んだ幼少期

まず、私の最初のものづくりとの接点は、母の実家が鋳物工場であったところから。
規模は小さく、祖父が経営者で、従業員も親族のみだったので、母は私を生んでからも仕事を手伝いに行っていた。

といっても、鋳物工場がどんなものか詳しくご存知の方は多くないかもしれない。
鉄を熱して溶かし、砂で作った型に流し込み、冷えるのを待って取り出し、はみ出した部分や余分な部分を削って成型する、簡単に言えばそんな工程だ。
身近に見かけるものでいうとマンホールの蓋や釣り鐘などが鋳物製品であるが、バレンタインデーを前に女性が、チョコレートを湯煎して溶かし、ハート型に流し込む、それを鉄でやっている、といえばイメージが湧くだろうか。

当然ながら、典型的な3K(汚い、きつい、危険)職場であることは言うまでもない。
そもそも1500℃の溶けた鉄を扱う仕事である時点で、とんでもなく過酷な仕事であることは想像頂けると思うが、そこが私の幼少期の遊び場だった。


見よう見まね

大人にとっても非常に危険な環境であるのに、祖父や母は私が工場で遊ぶことに寛容だったようだ。
見よう見まねで砂型を作り、そこに水を流し込んだら崩れてしまって泣いた話は、私が大人になってからも、親類が集まった席で笑い話になっていた。

のちに母は「大ケガしたり死んだりしない範囲でなら、自分で身を以て危険を体感することが大事」
とよく言っていた。何でも先回りして、子どもに危険を回避させる親が多い現代とは考え方が違っていたのだろうと思う。


自分の原点

そういう生活が、小学校の低学年頃までの日常だった。
さすがに高学年になると帰宅時間も遅くなり、友達と遊ぶほうが楽しくなり、いつの間にか工場へ足を運ぶ機会も減った。

でもその幼少期に得たものづくり体験が、その後にエンジニアを志す基盤となる。

残念ながら、叔父が継いでいた工場も需要低迷のあおりを受けて十数年前に廃業してしまった。
しかしあの頃の工場の熱気や匂いや空気感は、今でも自分の原点だと思う今日この頃である。

京都の伝統工芸が抱える問題とは 

1200年を越える歴史を持つ京都において脈々と受け継がれてきた伝統工芸。

その長い歴史に培われ、職人たちのたゆまぬ努力で磨き続けられた価値と魅力は、今もって多くの人を惹き付け続ける。

 

外国人観光客

SNSの普及によって外国人の目に留まることも多くなった伝統工芸品。それを目当てに京都に来訪する外国人が多いことは想像に難しくない。

今では、市内外の土産物店は外国人であふれている。

西陣織、京友禅、清水焼、京くみひも、京扇子、京料理、、など、挙げればキリがないが、どれも外国人にとっては、神秘的、魅力的なようだ。

特に欧米からの来訪者にとって全くの異文化でもあり、工房の見学やものづくり体験は非常に人気が高く、数か月先まで予約が詰まっている工房もあるようだが、それについては、また別の機会に書くことにしたい。

 

f:id:Subrow:20190819111842j:plain

 

観光客目当てのビジネス

祇園や嵐山など人気スポットの近くには、安価で和装体験させてくれる店が乱立している。今の季節は浴衣が大人気。そしてもう少し気候がよくなれば、舞妓や芸妓のいで立ちで街を散策する外国人女性もよく見かける。

しかし実は、レンタルに使われている着物含む和装品は、京都で作られたものはほとんどないのが実態である。ほとんどが海外で生産された安価な品物であり、材質もポリエステルだったりするし、マジックテープで簡単に着付けが出来てしまう代物である。

ビジネスする側からすれば、コストや顧客の回転率を考えれば至極当たり前の発想であるのだが、京都の伝統工芸とはほとんど関連のない世界であることはご承知おき頂きたい。 

 

和装業界の実情

今、京都の和装業界は大変なピンチである。

下手をすると業界自体がなくなってしまう、すなわち伝統が途絶えてしまう窮地に陥っている。需要の減少に伴い原材料や設備の調達が難しくなり、後継人材が育たず職人は高齢化し60代が最も若い世代ともいわれる。

それは需要の減少、すなわち和装をする人が減少しているのが一番の原因であることは言うまでもない。もちろん、本物の西陣織の帯や京友禅の着物を購入して帰る外国人観光客もいるにはいるが、それで業界が存続していけるだけの需要は残念ながら生み出せてはいない。

言わば第二の産業革命といわれるIT情報社会の波に乗っていけなかったツケが、今になって表面化してきているのではなかろうか。そこには、伝統を守っていく使命感の強さのあまり、変化することへの抵抗感が邪魔をしていたのではないかと想像できる。

 

伝統工芸の将来

私は京都で生まれ育ち、京都の伝統工芸やものづくりをリスペクトしている一人である。

和装だけでなく、あらゆる伝統工芸の一品一品は職人の魂と伝統が刻み込まれた素晴らしいものである。私はそんな伝統工芸を未来に繋いでいくことに対して、何かお手伝い出来ないかを日々模索している。

私が何故このように、「京都」、「伝統工芸」、「ものづくり」をテーマにブログを立ち上げたかについてはこのような背景があるのだが、詳しくは追々語っていくこととしたい。

京都にとっての終戦の日

今年も8月15日が間もなく来る。74回目の「終戦の日」である。

巷では「終戦記念日」という人もいるが、あれだけの尊い人命を失い、多くの犠牲者を出した戦争が終わった日を「記念」と称する気にはなれない。

 

f:id:Subrow:20190813172312j:plain

京都の戦災

ご存知の方も多いと思うが京都は戦災をあまり受けていない。隣の大阪は何度も大空襲を受けており、京都市内からも大阪の街が真っ赤に燃えているのが見えた、と母や祖母から聞かされたが、それに比べれば市内数か所で爆撃を受けているとはいえ軽微なものであったようだ。

 

米軍の原爆投下計画

米軍が京都を通常爆撃の標的から外していたのには理由があった。当時開発中の新型爆弾、つまりは原爆の第一投下目標として想定していたからだ。

三方を山に囲まれ、適度に人口密度が高く、原爆の威力と効果を確認するのに絶好のロケーションであったため、敢えて通常爆撃はせず街並みを維持していたのだ。

しかし、当時の米国国務長官ヘンリー・スティムソンはその軍の意向を聞き入れず、大統領にも承認しないよう説得した。結果的に広島と小倉に目標が変更されたが、投下当日は小倉の気象条件が悪くて、長崎に投下されてしまった。

 

京都に原爆が投下されなかった理由

スティムソンが京都への投下に反対した理由は、逸話的にいくつか伝わっている。

・スティムソン自身が過去に何度か京都を訪れ、強い思い入れがあったから

・軍事都市でもない京都の一般市民を多数殺戮することで、ヒトラー以上に世界的な非難を浴びるかもしれないから

・日本の誇りでもある歴史的建造物や文化財を破壊することで日本国民の感情をさらに逆なでし、戦後の統治政策に影響が出るから

正直、本当のところは私には分からない。

少なくとも一般市民を大量殺戮したのは広島でも長崎でも同じなのだし、東京や大阪などでも爆撃によって焼け出され、家族や大切な人を失った市民一人ひとりにとっては、アメリカに対して憎悪しかなかったであろうし。

結果論として、京都には原爆が投下されなかった、ということでしかないし、小倉もまた同じである。

 

終戦後の京都

不幸中の幸い、という言葉が適切かどうか判らないが京都は大きな戦災を受けずに終戦を迎えた。日本の大都市で唯一といっても過言ではなかった。

ただ物資の不足は何処も同じなうえに、戦災を免れたことで他都市から流入してくる被災者も多く、生活も治安も非常に厳しい状態だった、と祖母は語っていた。

当初の計画では原爆投下目標地点は京都駅の西側、現在では梅小路公園京都鉄道博物館のある辺りだったらしい。

私の両親の実家はともに京都市内の中心部に近かったので、もし原爆が投下されていれば、両親も恐らく犠牲になっていたであろう。そう思うと、今こうして自分が生きていることが不思議に思えることがある。

 

文化財や伝統工芸への想い

京都はもともと平安京創生の際より、四神相応の都として青龍、白虎、朱雀、玄武が各方角を守護するものされている。戦火を免れたことと四神の関係は証明することは出来ないが、少なくとも平安京以降、脈々と受け継がれてきた文化財や伝統工芸は、今日に確実に守られ伝わっている。そしてメディアの発展を通じて多くの外国人を惹き付け、観光客の増加に至っている。

愚かな戦争でそれらが失われなかったことに感謝し、今後も絶やすことなく継承していけるような平和な世の中であって欲しいと、京都市民として終戦の日を迎えるたびに切に願っている。

京都地元民から見た世界文化遺産

ユネスコ世界遺産条約が採択され「顕著な普遍的価値を持つ物件」、「移動不可能な不動産」を定義に登録を開始したのが1972年。そして1994年に京都、滋賀に点在する17箇所の寺社仏閣や城郭が「古都京都の文化財」として指定された。

今や、それらが観光資源として観光客を惹き付け、京都の経済、引いては日本経済に貢献しているのは言うまでもない。

f:id:Subrow:20190728145758j:plain

実は、私は弘法大師ゆかりで五重の塔で有名な東寺(教王護国寺)の直ぐそばで育った。

そこは小学生の私にとって絶好の遊び場だった。周囲にある濠でフナやザリガニや亀などを採ったり、境内で野球もした。学校から写生にも行ったし。

でも、実際には境内でのボール遊びも、生物の殺生もNG。見つかったら坊さんにお堂に連れて行かれて正座させられた。土塀によじ登って瓦を落としたこともあったが、その時は逃げて帰って事なきを得た、、、もう時効ということで。

しかしそんな話を府外からの来訪者にすると、皆さん一様に驚くようだ。恐れ多くも世界遺産で、、、みたいな感じになるらしい。

実は身近にあり過ぎて世界遺産の価値や有難みを、一番わかっていないのは地元民ではないかと思う今日この頃である。

 

 

 

 

【京都の夏は暑い!!】「京町家」に施された知恵と工夫

山鉾巡行も済んだし、そろそろ梅雨明けやで~」

幼い頃に祖母からよく聞かされた言葉だ。

今年もその言葉通り、祇園祭りの前祭山鉾巡行が終わり京都の暑い夏が来た。

今更説明の必要もないと思うが、京都は三方を山に囲まれた盆地であり寒暖の差が激しい。「徒然草」にも「暑き此(ころ)わろき住居(すまい)は堪えがたき事なり」との著述があるように、鎌倉時代から京都の暑さは格別だったようだ。

そんな先人たちがその暑さに耐えかねて、あらゆる知恵や工夫を凝らして涼しく暮らせるように作り上げてきたのが「京町家」だ。

f:id:Subrow:20190728161120j:plain

もともと「京町家」は間口が狭く奥に細長いのが一般的とされ、それが「うなぎの寝床」と言われる所以である。これは商人や職人が、道に面した部分を仕事場、奥側を住まい、とするスタイルが定着してきた江戸時代から見られるようになったようだ。

 

涼しく暮らす工夫と知恵

「京町家」には、大きく分けて涼しく暮らす工夫が二種類ある。

一つは物理的に風通しをよくして家の中にこもる熱を排出するもの、もう一つは視覚的、聴覚的に涼を感じられるようにする工夫である。

 

物理的に風通しをよくする工夫としては、外の風を取り入れるために軒先に配う「表格子」、屋根裏にこもる熱を排出するため中二階に配う「虫籠窓」、そして家の表から奥まで貫くように通路を作る「通り庭」が代表的なものである。

f:id:Subrow:20190728163951j:plain

 

f:id:Subrow:20190728170249j:plain

f:id:Subrow:20190728164519j:plain

 

最も風情の感じられる「坪庭」は視覚的な涼を感じると同時に、そこに打ち水をして気流の流れを作る役割もある。

あとは季節に応じて建具や敷物を替えたり、簾や葦簀(よしず)を使ったりする。

今や街中には「京町家」をリノベーションしたカフェや飲食店が並んでおり、多くの観光客を集めているし、今後もいろいろな用途で「京町家」が活かされていくことは大歓迎だ。

さらに「京町家」が本来持つ機能や魅力を失うことなく、先人の知恵と工夫を感じてもらえるものであり続けて欲しいと願う。

 

 

 

<哀悼>京都アニメーション放火事件

7月18日、京都市伏見区の「京都アニメーション」のスタジオが放火され、34人もの尊い命が奪われた。亡くなられた方々には心より哀悼の意を表したい。

犯人自身、大やけどを負い重篤な状態らしく明確な犯行理由は分からないが、どんな理由があるにせよ許されない行為であるのは明白だ。仮に回復したとしても、とても償いきれるものではない。御遺族の無念は計り知れないであろう。

実は私、「京都アニメーション」と同じ京都市伏見区に住んでいる。しかし恥ずかしながら「京都アニメーション」という会社がこの場所にあったことを、この件の報道を通じて初めて知った。

日本のアニメーションは世界的にも評価が高くファンも多いことは知っていたが、私の知識はその程度であった。しかし今回は大変不幸な出来事がキッカケではあったが、こんな身近な場所に世界的なカルチャーの発信地があったことを知り、改めて地元民として京都の懐の深さを思い知った。

こんなふうに書くと、往々にして「排他的」と捉えられがちなイメージの京都とは違うふうに受け止められるかもしれない。確かに「一見さんお断り」や「ぶぶ漬け」の話に代表される、地元の人にしか分からない文化や言い回しがあるのは確かだ。しかしそれらは単に「いけず(嫌がらせ)」をしているのではなく、それぞれに確たる理由があって古くから受け継がれてきたものである。

そもそも京都の文化は、平安京遷都以来、多くの人やモノが出入りする中で形成されてきた経緯があり、新しいものを柔軟に受け入れ、活かし、独創的なものを生み出すことの出来る土壌がある。任天堂を始めとする京都発祥の代表的な企業や、多くのノーベル賞受賞者を排出している京都大学は、そういった土壌のもとで生まれ育ってきたと言えるであろう。

そういう意味でも「京都アニメーション」も、京都の文化の一つのカテゴリーとして更なる飛躍があったであろうと思うと、今回の事件は本当に悔やまれる。

今後の一日も早い復興を祈念したい。