Subrow’s Blog

エンジニアとしてのキャリアをベースに「ものづくり」の昔と今、そして未来予想図をこのブログを通じて創っていきます

ものづくり(伝統工芸)への思い入れと原点

台風が通過したあとも残暑厳しい京都だが、秋の訪れも間近である。
最近では地球温暖化の影響か紅葉の見ごろも11月後半頃までズレ込んできている。
「そのうちクリスマスと紅葉の見ごろが重なるのでは」といった、なまじ冗談とも思えない話が出るのも無理はない。

今回は、そんな京都で生まれ育った私が、こうしてものづくりや伝統工芸について強い思い入れを持った経緯の一端について書かせて頂く。


鋳物工場で遊んだ幼少期

まず、私の最初のものづくりとの接点は、母の実家が鋳物工場であったところから。
規模は小さく、祖父が経営者で、従業員も親族のみだったので、母は私を生んでからも仕事を手伝いに行っていた。

といっても、鋳物工場がどんなものか詳しくご存知の方は多くないかもしれない。
鉄を熱して溶かし、砂で作った型に流し込み、冷えるのを待って取り出し、はみ出した部分や余分な部分を削って成型する、簡単に言えばそんな工程だ。
身近に見かけるものでいうとマンホールの蓋や釣り鐘などが鋳物製品であるが、バレンタインデーを前に女性が、チョコレートを湯煎して溶かし、ハート型に流し込む、それを鉄でやっている、といえばイメージが湧くだろうか。

当然ながら、典型的な3K(汚い、きつい、危険)職場であることは言うまでもない。
そもそも1500℃の溶けた鉄を扱う仕事である時点で、とんでもなく過酷な仕事であることは想像頂けると思うが、そこが私の幼少期の遊び場だった。


見よう見まね

大人にとっても非常に危険な環境であるのに、祖父や母は私が工場で遊ぶことに寛容だったようだ。
見よう見まねで砂型を作り、そこに水を流し込んだら崩れてしまって泣いた話は、私が大人になってからも、親類が集まった席で笑い話になっていた。

のちに母は「大ケガしたり死んだりしない範囲でなら、自分で身を以て危険を体感することが大事」
とよく言っていた。何でも先回りして、子どもに危険を回避させる親が多い現代とは考え方が違っていたのだろうと思う。


自分の原点

そういう生活が、小学校の低学年頃までの日常だった。
さすがに高学年になると帰宅時間も遅くなり、友達と遊ぶほうが楽しくなり、いつの間にか工場へ足を運ぶ機会も減った。

でもその幼少期に得たものづくり体験が、その後にエンジニアを志す基盤となる。

残念ながら、叔父が継いでいた工場も需要低迷のあおりを受けて十数年前に廃業してしまった。
しかしあの頃の工場の熱気や匂いや空気感は、今でも自分の原点だと思う今日この頃である。