Subrow’s Blog

エンジニアとしてのキャリアをベースに「ものづくり」の昔と今、そして未来予想図をこのブログを通じて創っていきます

話題のシューズを見て、改めて思う「ものづくり」に携わる人が向かうべき将来

前回のブログでは「ものづくり」の原点となっている二つの欲求について述べた。
一つ目は、買う側、使う側が求める「便利な暮らしにしたいという欲求」、二つ目は、作る側が求める「良いものを作りたい欲求」だ。

今回は「良いものを作りたい欲求」について、最近巷で話題になっている一つの製品をネタに「ものづくり」を考察してみたい。

年末から年始にかけて開催された駅伝やマラソンで新記録や好記録が連発している要因として話題に上っている厚底シューズ、NIKEのヴェイパーフライについて目や耳にした方も多いだろう。

そもそも私はシューズの専門家でもスポーツの専門家でもないので、細かい構造や機能が分析出来るわけではないが、ソールが3層構造になっていて特殊なクッション素材の間に反発力のあるカーボン素材を挿みこんでいるのがキモ、というような一般的な情報はネット上で確保出来た。

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その他、既にこのシューズについては数えきれないくらいの考察やコメントが出ているが、そのほとんどが使用者側目線のものだ。使用是非も含め賛否両論さまざまあるようだが、半ば「魔法のシューズ」的な取扱いになっていて、このシューズを使えば記録が向上すると分かっているのなら、選手や関係者は使えるものなら使いたいと思うのが自然だろう。既に広く市販されているものなので入手は難しくないようだから。

が、私は作り手側の観点から見てみたい。

今までの常識を疑うところから始まり革命的な新しいものが生まれるのは「ものづくり」ではよくある話だ。このシューズも例外ではないようだ。軽くて薄いシューズが常識となっている中で、敢えて軽さを犠牲にして厚底にすることで性能向上を実現し革命的な製品を世に出したことは、つくづく素晴らしいと感じる。

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この製品はNIKEという巨大企業だからこそ、巨額な研究開発費と極めて優秀なエンジニアを投入して製品化され市場に出された製品であるのは間違いない。しかしそこに至るまでに、今までの常識や既成概念に捉われない発想に基づいたアイデアの起草があったからこそ出来た製品なのだと、私は考える。

ほぼ例外なく「ものづくり」に携わる人間はこだわりが強い。
職人と云えば融通が利かない、頑固一徹のイメージを持つ人も多いだろう。伝統工芸や中小零細のものづくり企業では、より一層そういう傾向が強いだろう。私はそれ自体を決して悪いと思わないし、逆にリスペクトすべき部分でもあると思っているが、やはりそれだけでは将来に向けてのビジョンを描くのは難しい。

私が思うに、NIKEのような巨大企業であろうが、伝統工芸の工房であろうが、中小零細企業であろうが、「ものづくり」の原点は今までの常識や既成概念に捉われない発想に基づいたアイデアの起草であることに違いはないのだ。潤沢な資金や優秀な人材があったところで、現状を打破するような発想やアイデアがないことには何も始まらない。

そういう意味で「良いものを作りたい欲求」を満たすために、その規模や分野に縛られることなく、過去を疑い、現状を疑い、常識を疑い、既成概念を疑うことに、エンジニアや職人の方々の意識が高まって欲しいと切に願う。それが今後の「ものづくり」の衰退に歯止めをかけ、新たな発展の糸口を見出すことになると私は信じているし、この「魔法のシューズ」のような製品が、いろいろな分野で生まれてくる状況に向けて、微力ながら尽力していきたいと思っている。

「ものづくり」の原点となっている二つの欲求とは

今の時代においては「ものづくり」との云う言葉の定義はものすごく広くて複雑だ。
故に非常に曖昧な言葉であるとも言える。

私の考える「ものづくり」の原点は生きるための道具作りだ。
それは旧石器時代から、その時代や環境に合わせて受け継がれてきたアイデアと知恵の結晶に他ならない。もちろん18世紀の産業革命によって大きく進化、拡大するのだが、その根本にあるのはたった二つの欲求であると思っている。

まず一つ目は、使用者目線での便利な暮らしにしたいという欲求に基づいた「ものづくり」の進化だ。
これは人間として誰もが持っている欲求であり、少しでも便利に暮らしたいにしたいと皆思ってきたのだ。

話は大きくさかのぼるが、先史において石器から青銅器、そして鉄器に進化してきたことが典型的な例だ。先史時代における鉄は、まさにエポックメイキングな素材であったはずである。
そこに至るには、加工し難くくもろい石器や、素材供給が安定せず品質にバラツキが大きかった青銅器の、それぞれの不便さや欠点を解消するために、鉄の精錬技術開発に尽力した先人たちの努力があったのは間違いない。云うまでもなく鉄は、現代においても広く使われているし、その鉄をベースに鋳鉄や鋼やステンレスなどが開発され用途によって使い分けられるようになったのは、まさしく便利に暮らすための知恵が作り出した進化なのだ。

そしてもう一つは、作り手目線での良いものを作りたい欲求に基づいた進化だ。
人が欲しがるもの、便利だと思うものを作って提供する、これはビジネスの原点だ。これは今も昔も、どんな分野でも変わらない。だからこそ他人に出来ないことをやろうとして知恵を出し、工夫を重ね、特殊な技術を習得しよう努力し、差別化を図ろうとする、その思いが技術の進歩を支えてきた。そしてその心意気が「職人」というプロフェッショナルを育成し、継承させ、そこで得られる信念とプライドが「ものづくり」を進化させてきたのだ。

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しかし、先史時代以降長らく続いてきたこの2つの欲求に基づく「ものづくり」の進化は、第4次産業革命の拡大によって必ずしも当てはまらない時代になってきていると考えている。細かい話は追々このブログで書いていきたいと思うが、あらゆる意味で多様化が急速に広がっている現代においては、便利と感じる感覚も多様化しているし、便利になり過ぎることを否定する人たちまで出てきているのだ。

18世紀の産業革命以降、ひたすら便利と効率を追い求めて成長してきた「ものづくり」は、まさしく岐路に立っていると云っても過言ではない。しかし一方で、人が生きていくうえで「ものづくり」がなくなることもない。

そのような観点で考えたとき、今後の「ものづくり」はどういう方向に向かうのか、作り手側はどういう姿勢で「ものづくり」に向き合うべきなのか、について、将来を担う職人の方と一緒に「未来予想図」を描いていきたいと私は思っている。

2020年を迎えて、あらためて今後の「ものづくり」について考えたい

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平成から令和に元号が変わり8か月、2020年が明けた。
その間、新天皇御即位の慶祝ムードに包まれ、さらには東京オリンピック開催のお祭り気分をマスコミが煽る中、消費税率が8%から10%に上がって国内の消費動向が明らかに冷え込んできている。

顕著なところでは、10月の国内自動車販売は前年同月比20%近い減少、11月の工作機械受注に至っては40%近い減少になっている。政府は一時的な落ち込みと楽観視しているようだが、いくつかの業界の方にお話しを聞くと、国内需要だけでなく輸出も下落している現状からは、今後の見通しも非常に厳しいと云う話が多く聞かれる。もっとも日本人の性質上「ウチの会社は前途洋洋です」みたいな話が聞けるはずもないのだが。

その見通しが正しければ、「ものづくり」が今後大きな変化の渦に巻き込まれるのは間違いない。

ご承知の通り、18世紀の産業革命以降「大量生産、大量消費」によって経済的に発展し、豊かさを手に入れ、便利な暮らしが当たり前になった。あらゆるものが簡単に手に入り、消費出来る時代を我々は生きてきた。そして「ものづくり」企業がその暮らしを支えてきた。

しかしもうそんな時代は過去のものになりつつある。

今のままでは日本は毎年1%ずつ人口が減少していき消費は自ずと減っていく。さらに所得増が見込めない中での消費増税で消費者のマインドは冷え込み続け、ものを買わなくなる。さらにあらゆる分野でシェアリングが拡大していき、クルマを筆頭に個人で保有する必要のないものが増加してそれに拍車をかける。

それらの結果、「ものづくり」が衰退していくのも必然だ。

現状の日本国内は、まだまだ「大量生産、大量消費」が前提の仕組みが幅を利かせている。工場も、流通も、そして多くの「ものづくり」企業のマインドも、安価で大量に作って製造単価を下げ、薄利多売で利益を出す、という構造が主流だ。

しかしそれは結果的に低賃金労働者を増やすことに繋がり、裏を返せば彼らの消費者としての購買余力を下げ、安いものしか買えない人を増やし、また安いものを提供するためにコストを下げる、という悪循環を生み出してきたに過ぎない。

もっともこの構造は、今となっては「ものづくり」だけではなく、日本全体に根深く巣食う非常に深刻な病巣であるのだが。

あのトヨタでさえ、経営者が社員に対して繰り返し危機感を共有し事業構造転換を唱えても、多くの社員のマインドは容易には変わらないと聞く。

しかし大手企業の下請けで、際限なくコスト低減を要求される中小零細の「ものづくり」企業では、経営者ですらそんな方向に目線を向けられない現実があり、当然そこにいる社員は推して知るべしだ。

それぞれがそれぞれの立場や環境での思いはあるだろうが、過当競争によって安価で提供することを最優先として尽力し過ぎた功罪が、ブラック企業なる極めて残念なワードを生み、これほどに日本を疲弊させ没落の危機に直面させてきているのだ。

もちろん長年に亘ってこの構造を容認し、また時には推進してきた政府や経団連の責任は大きいであろう。

しかし私は、伝統工芸などの手仕事も含めた「ものづくり」に思い入れのある身として、政治や経団連の話はさておき「ものづくり」の本質の部分で微力ながら変革の一助になれればと考え、今後も私自身の思いを発信し活動していきたい、と2020年の年始を迎え改めて思っている。

第4次産業革命は「伝統工芸」にどの程度インパクトがあるのだろうか

第4次産業革命という言葉が、巷に出始めたのは何時頃だろう。
政府が「日本再興戦略2016」として、IoT、ビッグデータ、AI、ロボット、の4つのキーワードを挙げた頃からだろうか。この第4次産業革命は過去に起こった産業革命に比べて、非常に幅広い分野に影響するもので、故に不確実で予測のつかないことが起こってくると云われている。

私が本ブログでたびたび取り上げている「伝統工芸」という分野は、代々受け継がれた熟練の技を習得した職人によるものづくり、つまりはアナログ的な世界というイメージが強いだろう。そこにデジタルを前面に押し出した、しかも不確実要素の非常に大きな第4次産業革命が、今後この分野にどのように絡んでくるのだろうか。

形式知(知識知)」

一般的な量産品を生産するものづくり企業では、製品を均質かつ効率的に作るために作業工程は極限まで標準化される。そしてその作業工程や手順、ノウハウを判り易く明文化(マニュアル化)して運用される。この明文化されたを知識を形式知(知識知)」と呼ぶ。その結果、マニュアル通りに作業すれば作業者の熟練度に大きく影響を受けることなく製品が出来上がるのである。

量産品を生産するものづくり企業はこれを極めることに長年注力してきた。無論、技能伝承を円滑に行うために「形式知(知識知)」化が進めらてきたわけで、短期間で誰でも一定レベルまでの技能習熟を可能とするために、あらゆる知恵と工夫が重ねられてきた。今後この分野はビッグデータ化どんどん進み、AIがロボットをコントロールして、最適な生産工程を担っていくことになるだろう。

暗黙知

一方で、職人の熟練した技そのものが価値と云える「伝統工芸」など手しごとの分野で、過去の経験をもとに成り立っている主観的な知識のことを暗黙知と呼ぶ。そこは文書化や数値化などという形式的なものが入り込み難い感覚的な世界であり、職人が長い習熟期間をかけて少しずつ会得していくものである。言い方を換えれば、そこは誰にでも簡単にマネできるような領域ではないのであって、本来はそれこそが手しごとでものづくりを行う職人の価値であり、だからこそその製品を買いたいと思わせる部分なのだ。

寿司の話

判り易い例として、この二つを寿司で比較してみたい。
皿に乗ってレーンを流れてくる回転寿司と、カウンターの向こうで職人が握り、下駄に乗って出てくる寿司、まさしく形式知(知識知)」と「暗黙知の典型例ではないだろうか。

ネタの切り方やシャリの炊き方まで標準化され機械的に作られる寿司は、均質で安価なものを提供するために「形式知(知識知)」化を追求している。一方で、職人の経験と感覚と技で握られる寿司は「暗黙知」化の極み。シャリの粒の数までほぼ同じに握れる感覚や、ネタの質や種類によって握り方を微調整するというような熟練の技があってこそ。それがあるから相応の価格での提供が可能だし、それを支払う顧客も満足するのだ。

手しごとの世界の進むべき道

そう考えると、現状で見えている第4次産業革命が「伝統工芸」などの手しごとの分野にもたらすインパクトは、こと「ものづくり」という部分に限定すると、あまりないのかもしれない。まさかこの分野でIoTを導入してスマートファクトリーを目指そうとするところは、そうそうないだろう。

しかし私はITの活用を通じて、往々にして閉鎖的な「伝統工芸」や手しごとの世界を開放的に変えていくことが、ものすごく重要ではないかと感じている。今までつながりのない異分野、異業種とつながることも可能だし、それも世界中のあらゆるところとつながれる。そんなところで生まれる、既存の常識や概念に捉われないイノベーションや化学反応に期待とわくわくが膨らむ。

例えば、西陣織の内装を施したフェラーリがあってもいいのでは、、、とか。

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ものづくりにおいて製品安全に関わるリスクとコストをどう考えるか

私は以前、製造物責任に関わる業務を経験したことがある。
最近巷ではあまり耳にしなくなったが、いわゆるPL法などに関連する案件や事項を取りまとめ、市場での製品リスクの回避、軽減を図るための部門だ。

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電子レンジで猫を乾かす?

私も真偽のほどはよく知らないのでその点はご了承いただきたいが「愛猫を洗ったあとドライヤーで乾かすのが面倒だったので、電子レンジに入れて乾かしたら死んでしまった」という損害賠償訴訟が米国で起こったというジョークのような逸話があるのをご存じだろうか。

原告の言い分は「電子レンジの取扱説明書に”猫を乾かしてはいけない”とは書いてないではないか」というものだったようだが、常識的に考えて、電子レンジの使い方として正しいものでないのはお判りだと思う。しかし、世のなかにはいろいろな人がいるもので、メーカーの想像もしていない使い方をされ、それが原因で事故や故障が起こる場合が結構あるのだ。

もちろんメーカーは、目的外使用や改造が原因のトラブルと特定されるものには、基本的に保証もしないし賠償に応じることもない。ただしそれは、その内容が適切に取扱説明書に書かれているか、または製品に貼り付けたラベルなどで告知してあるか、など、何らかの注意喚起がされていることが大前提になるなのだ。

マクドナルドが60万ドル支払い

過去には膝にコーヒーをこぼして火傷した人が、熱すぎる商品を注意喚起もなく提供したマクドナルドを相手に訴訟を起こし、60万ドルもの賠償金が支払われたのは有名な話だ。それがキッカケとなり飲食店はこぞって、商品提供時には「熱いのでお気をつけ下さい」との注意喚起を添えるようになり、またカップやパッケージにもハッキリと表示するようになったのだ。

米国は訴訟社会とよく言われ、一つ間違えば莫大な賠償金の支払いが突きつけられるし、その分野で腕の立つ弁護士がたくさんいる。だから米国に製品を輸出し販売している企業は製造物責任に神経質にならざるを得ない。そして今や、米国だけでなくその他の国でも同じようなリスクに配慮しなければならない状況だ。中には法令や法規がコロコロと変わり安定しない国もあるため、取扱説明書へ記載する内容には細心の注意と配慮が必要だ。大手企業では既にそういった認識も進んでいて取扱説明書などに労力とコストをかけて、極力リスクの少ないものを作る努力がされているようだ。

中小企業や伝統工芸品の抱えるリスク

しかし中小企業の製品や、京都やその他各地で製造、販売されている伝統工芸品などは、私が見る限りかなりリスクが高いように思える。これだけ日本を訪れる外国人観光客が増えているなか、土産物としていろいろなものが製造、販売されているが、文化も常識も異なる外国人にどういう使い方をされるのか、は日本人には全く想像もつかないこともあるだろう。そういう観点でみると、外国人観光客が購入して自国に持ち帰る製品を製造、販売している時点で、リスクはゴロゴロころがっていると考えるべきであり、その対策を考えるべき時期にきているのではないかと思う。自社では輸出していないつもりでも、外国人観光客が自国に持って帰れば輸出しているのと同じことなのだから。

確かにそこに注力するにはコストも掛かるし、大手のようなわけにはいかないであろうことは理解できる。しかし、上記のようなリスクがあることは認識しておくべきと思う。ひとたび訴訟に巻き込まれたら、下手をすると会社が吹っ飛ぶくらいの賠償金が請求されてくる可能性があるのだ。

何か、半ば脅しのような書き方になってしまい大変恐縮なのだが、今まで何もないからこれからもない、という保証はどこにもない。いわゆる「正常性バイアス」が邪魔をして対応が進まないのであればそれは非常に残念だし、一度自社の製品を改めて見直される機会を持たれたほうがよいと思うし、多少のコストは保険と思って割り切るくらいの意識が必要と思う。私でアドバイス出来ることがあれば、させて頂くので。

高度成長期に創業したものづくり企業の二代目経営者が陥りがちな呪縛とは

京都の伝統工芸と云えば創業数百年は当たり前、明治創業なんて伝統工芸には数えてもらえないような、そんな世界だ。しかし京都発祥で昭和創業のものづくり企業が、ITや自動車、電機など多くのカテゴリーで世界を席巻しているのも事実。売上1兆円を超える京セラ、日本電産村田製作所の3社、その他にもOMRON、ローム、ワコールなどなどが著名なところだ。

これらはいずれもカリスマ創業者が一代で巨大な企業規模を作り上げた企業だ。
そのほとんどが既に創業者から二代目、三代目に経営が承継されており、世襲の場合もそうでない場合もあるが、概ね継承はうまくいっているといえるだろう。

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中小零細ものづくり企業の課題

一方で、中小零細ものづくり企業の事業承継は非常に厳しい状況のようだ。
私は仕事上及びプライベート含め、高度成長期に親の立ち上げたその種の企業を世襲で継承している人、すなわち二代目経営者を何人か知っている。その人たちからよく聞こえてくるのは、いろいろな意味で創業者である先代の呪縛をなかなか取り払えない、という主旨の話である。もちろん先代が存命であればその威光に影響を受けるのは判るし、他界されていても基盤の部分を変えることがなかなか難しいようである。

今までその人たちと話した内容を振り返りながら、メーカーエンジニア視点でその呪縛について考えてみた。

云うまでもないかもしれないが、ものづくりビジネスは客が欲しいと思うものを作ることが大前提である。先代の築いた事業及び製品は、その時代にそれを必要とする客がいたからこそ成立したし、成長もしてきた。それは先代がそれに合う技術と嗅覚と運を持っていたからに他ならない。だが、時代が移るに連れ求められるものが変わるのが世の常である。テレビがブラウン管から液晶に変わったように、自動車がガソリンから電気に変わろうとしているように。

ものが売れない時代への移行と対応のスピード感

しかし彼らの親が創業し業績を伸ばした高度成長期は、人口増加と相まって大量にものが売れた時代。すなわち、ひとつふたつの優れた製品があれば、それなりにビジネスが成立した時代だ。しかし今や、人口が減少するのにニーズは多様化し、加えてシェアビジネスやネットでの個人間売買が普及、拡大してきて消費者の購買行動が大きく変化した。トヨタ豊田章男社長が躍起になって、車を売ることからモビリティサービスへのシフトを急いでいるように、ものが売れない、所有しない時代が到来しつつあるのである。

つまり、ものを作り、売って、事業を継続してきた企業にとって、先代の系譜をそのまま受け継ぐだけだと、遅かれ早かれジリ貧になるのは間違いない。しかし中小零細の資本力、技術、人や設備などのリソースでは大きな事業転換が容易ではないのも理解できる。

しかし私から言わせれば、自分たちで「ものづくりしか能がない」と決め込んでいる。そのマインドが誇りでもあるのだが、一方で最大の課題であり呪縛だと思う。親が築いたものを大切にしたい、長年取引のある客に不義理は出来ない、その気持ちは十分に判るが、そこに固執し過ぎて事業を潰しては元も子もないのだから、マインドの切替えをスピード感を持って少しでも早くやった方がいいだろう。

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イノベーション」の捉え方

イノベーション」という言葉が一般的に使われ出して久しいが、彼らにとってそんな容易なものでないことも承知している。しかし敢えてそこに踏み込んで欲しい。なぜなら、彼らの持つ技術やノウハウこそ価値を生むための「イノベーション」が活かせる部分であり、「ものづくり」という領域を超えた新たな「イノベーション」が必ずあるはずだ。

そもそも製品は成果物=売り物なのだから、見て、買われて、使われることで価値が評価される。しかし、製品が出来るまでの技術やノウハウは、購買者側から見えるものではないし価値を評価するのも難しいが、その技術やノウハウこそが売り物になることに気付けていないことも多そうだ。

時代の流れに沿うには、先代が築いた形(製品)ではなく、ポリシー(気持ち)を承継することに切り替えることが必要な時代だ。繰り返しになるが、前述の豊田章男社長の考えを代弁するなら「安全、快適に人やものを輸送する手段をビジネスとして提供する」ことだと思うし、近未来のその手段がモビリティサービスだと言っているのだ。「トヨタの規模など比較にもならない」と卑屈にならず、中小零細ものづくり企業もこういう観点で活路を見出して欲しい。

私も微力ながら、そんな課題を抱えた事業者の方の「イノベーション」のお手伝いが出来ればと考えているのだ。

京都の「オーバーツーリズム」に関して一考してみた

今年も11月半ばに差し掛かり、紅葉が色づき始めてきた京都。
今や、どの季節も観光客であふれかえっている京都だが、桜のシーズンと並んで最も多いのがこれからひと月ほどのこの季節だ。

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が、前にも少し述べたことがあるのだが、観光客が増えれば増えるほど京都府民/市民として憂鬱になるのが「オーバーツーリズム」の問題だ。いろいろな国や地域から京都に来てもらえるのは非常に有難いことなのだが、普通に生活している住民と観光客の棲み分けは容易ではない。


交通網の整備が置き去り?

一口に「オーバーツーリズム」と云ってもその状況は様々だが、今、最も大きな問題は市内の移動手段だ。
今、京都市内は宿泊施設の建設ラッシュで受入れ可能な客数は増加の一途だが、一方でそれをさばけるだけの十分な交通網が整っていないのが実情だ。

京都を訪れた経験のある方はご存知かと思うが、市内の主要交通手段は市バスになる。地下鉄もあるにはあるが、東京や大阪のような充実した路線数には遠く及ばないし、主要観光地へのアクセスは市バスとの乗り継ぎが必要になるケースがほとんどだ。

しかしこの市バスは、通勤、通学、通院、買い物などに市民が日常的に使う”足”でもあるので、その兼ね合いが非常に難しい状況になっている。今やダイヤの大幅遅延はもちろん、満員でバス停を通過してしまうことも日常茶飯事になりつつある。そんな状況だから、観光に携わらない大半の市民にとっては不便ばかりが目立つ印象だ。


京都で地下鉄網を拡大出来ない理由

本来であれば、もっともっと地下鉄網を充実させて移動手段を安定確保したいところであるが、そうもいかない理由がある。

その理由は、皮肉にも京都という土地柄ゆえの事情が大きく影響している。
京都は都として1200年もの歴史を重ねたこと、そして太平洋戦争での戦災を免れたことで、いまだに市内のそこら中に未知の遺構や埋蔵物がある。つまり、地中を掘れば掘るほどいろいろなものが見つかるため、そのたびに工事の中断が頻繁に起こる。そのため予定工期は遅れ遅れになり、それに伴って余分な費用が発生していくのだ。京都の地下鉄運賃が日本一高いといわれるのも、そこに理由があるのだ。

それは地下鉄に限らず、建造物なども同じだ。掘削工事が開始されても、そこで貴重な遺構などが発見されれば、何年も工事を止めて学者や研究者が張り付くようなことが、今でも頻繁にあるのだ。地下鉄が開業されて40年近く経過した今でも路線数がほとんど増えないのは、そんな事情も大きく影響しているからだ。

もっとも、道路沿いからでも楽しめる寺社仏閣や文化財が多くある京都市内を、車窓から何も見えない地下鉄で移動するのは勿体ないし、出来れば地上での移動手段で円滑に楽しんで欲しいと思うので、私自身はあまり地下鉄の路線が増えることを望んではいないのだが。


路面電車の復活を願う

もともと京都市内は路面電車が走っていた。1895年に日本で最初に営業運行された路面電車だ。
しかし市内中心部は道路幅が狭いうえに、高度成長期のマイカー普及に伴う交通量の増加で路面電車との棲み分けが難しくなり、押しやられる格好で少しずつ路線が減り1978年に全廃となった。その後は市バスがその代わりを務める形になり、さらに1981年には市内の中央部を南北に貫く地下鉄も開通した。その後、1997年に東西線も開通したが、その後は新しい路線は開通していない。

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そんな状況を打開するため、私はバスに代わり路面電車の復活を願いたい。
地下鉄網を拡充するのに比べれば費用も工期も圧倒的に少なくて済むだろうし、輸送力向上、渋滞緩和、さらには環境負荷軽減にも効果があるはずだ。

今後「オーバーツーリズム」の進行によって観光客と市民の共存が難しくなり、どちらも嫌な思いをするのは本意ではないと、皆思っているはずだ。ラグビーW杯でも改めて取り上げられた「おもてなし」文化を、気持ちよく提供できるマインドになれる環境作りの一環として、多くの人に気持ちよく訪れてもらうためにも、是非とも検討して欲しい。

多くの路面電車が活躍しているヨーロッパの観光都市なども大いに参考にして、観光客が楽しめる環境と市民生活を両立出来る京都になることを切に願っている。